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●ヨハン、アダムス・クルムス
Johann Adam Kulmus(1689〜1745)
『ターヘル・アナトミア』の原著者。ブレスロウ(今のポーランド領)に生まれ、ハレルやバーゼルなどの諸大学で医学と博物学を学ぶ。ダンチッヒで開業しながら、ダンチッヒのギムナジウム教授として医学と博物学を教える。『簡明解剖書』『自然哲学要綱』を著し、他に動物・鉱物・生理学など巾広い論文を書いている。
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●小田野(おだの) 直武(なおたけ) (1749〜1780)
『解体新書』の解剖図を画く。画家、秋田藩士。平賀源内(1720〜1779)から洋画(蘭画)を学び、「秋田蘭画」の中心的存在になる。代表作に『不忍池図』がある。
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●山脇(やまわき) 東洋(とうよう) (1705−1762)
日本最初の解剖図録『蔵志』の著者。京都の宮延医官。後藤民山に古医方を学ぶ。宝暦4年(1754)2月7日幕府の許可を得て刑死体の腑分を観た。その後、日本各地で刑死体の解剖が行われるようになり、山脇一門も度々解剖をしている。
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●宇田川(うだがわ) 玄真(げんしん)(榛斎(しんさい))(1769−1834)
伊勢の人で、蘭学を大槻玄沢に学び、杉田玄白の養子になったが、放蕩があって離縁し、のちに岡山津山藩医宇田川玄随(槐園)の死後、宇田川家を継いだ。西洋の数種の解剖書を訳して『遠西医範』30巻を書いた。その綱領を3巻にまとめて出版したのが『医範提綱』である。『和蘭薬鏡』『遠西名物考』を著す。
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●各務(かがみ) 文献(ぶんけん) (1765−1829)
大阪の整骨医(整形外科医)。骨の形態や機能を研究するため数10回解剖したという。『整骨新書』を著すと共に実物大の木製骨格を作った。
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●建部(たてべ) 清庵(せいあん) (1712−1782)
奥州一関(今の岩手県一関)の医官。
自分の子、由水と弟子大槻玄沢を杉田玄白の塾に入れ、玄白と西洋医学などについて往復書簡を交わす。飢饉の時、役立つようにと『民間備荒録』を著す。
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●杉田(すぎた) 玄白(げんぱく) (1733−1817)
『解体新書』発行の推進者、若狭小浜藩医。
蘭方外科医を看板にしているが、人体の中を見たこともないと嘆いていたところに、小塚医での腑分を観る機会を得た。『解体新書』出版に際しては、幕府から発禁処分にならないよう細心の注意を払っている。『解体新書』発刊後玄白の塾「天真楼」には西洋医学を学びに全国から入門者があった。『形影夜話』『後見草』などを著している。
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●前野(まえの) 良沢(りょうたく) (1723−1803)
『解体新書』の実質的な翻訳者。豊前中津藩医。
青木昆陽にオランダ語を学び、長崎に遊学。玄白らと『解体新書』を訳述したが、良沢は訳述が不完全として出版に反対し、自分の名前を載せなかったという。
蘭学の研究に没頭し、藩医としての勤めを怠ったが、藩主から「オランダの化け物だから」と許された。以来蘭化≠ニ号するようになる。『蘭訳筌』『蘭訳大成』『八種字考』など多くの写本を残している。
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