『解体新書』文献編  『解体新書』人物編  『病草紙』  『病草紙』關戸家本
『解体新書』の世界  『蔵志』  腑分(ふわけ)を観た刊場  Ontleedhundige Tafelen
『解体新書』翻訳の地  『解体約図』  『解体新書』  『ターヘル・アナトミアと解體新書』
『和蘭医事問答』  『医範提綱』  『和蘭内景医範提綱 内象銅版図』
?斎(いさい)「目録」  『整骨新書』  『冬の鷹』

ヨハン、アダムス・クルムス  小田野直武  山脇東洋  宇田川玄真  各務文献
建部清庵  杉田玄白  前野良沢

『解体新書』の世界

杉田玄白らが西洋の解剖書を翻訳して『解体新書』を出版したことは、30年前まで、解剖書の翻訳程度しか考えられていなかった。そのため、玄白たちの業績は医学、科学、文化交流などの歴史を研究する人たち以外知られることがなかった。

『解体新書』の発行は、通詞(通訳)から間接的に学んでいた医者や学者たちが、自分で西洋の書物を翻訳して西洋の学問、文化を直接学ぼうとする気運を作った。「蘭学」の始まりである。

オランダ語を翻訳して学ぶ「蘭学」はドイツ語、フランス語を、英語、ラテン語、ロシア語の本も翻訳して広く西洋の文化を吸収しようとする「洋学へと」発展した。「蘭学」から「洋学」へと発展する速度は早く、杉田玄白はその発展を見つつ幸せな生涯を送った。その事は玄白晩年の書『蘭学事始』に詳しい。そして玄白は自ら「九幸老人」と名乗った。

日本の文化史において、大きな役割を果たした『解体新書』翻訳の話は、今では日本史の教科書に載っている。



『蔵志』(複製)
全2冊 山脇東洋著 宝暦9年(1759)刊

日本で出版された最初の解剖書。幕府の許可を得て宝暦4年(1754)に京都の六角獄舎で腑分けを見た時の解剖図と解剖記録を記述。他に解剖慰霊祭の祭文、析にふれて記しした文章なども書かれている。

図は写実を重んじる丸山派の画家に描かせたが、中国医書の解剖図の知識で人体を観察しているので漢方医書の「五臓六腑図」に似ている。しかし、この解剖書の出版により、解剖の必要性が認識され、杉田玄白たちに刺激を与えた。




腑分(ふわけ)を観た刊場
(東京都荒川区南千住回向(えこう)院)

明和8年(1771)3月4日、杉田玄白、中川淳庵、前野良沢らは浅草山谷町の茶屋に落合い、小塚原に行き腑分を観察した。玄白と良沢はオランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』を懐から取り出し、その解剖図と刑死体から取り出した内臓とを見くらべた。

西洋の解剖書が正確なことに驚き、3人は帰りに『ターヘル・アナトミア』を翻訳しようと約束した。




Ontleedhundige Tafelen=i複製)
ドイツのヨハン・アダム、クルムス Johann Adam Kulmus(1689〜1745)が著した。
Anatomische Tabellen=i『解剖学表』)のオランダ語訳(蘭訳)。

『解体新書』の翻訳出版に使われた原書で、杉田玄白たちは「ターヘル・アナトミア」と呼んでいた。

ドイツ語初版が1722年に刊行されて以来、各地で版を重ね、1734年にオランダ語訳、1736年にフランス語訳され、1774年に日本語訳され『解体新書』として出版された。




『解体新書』翻訳の地
(東京都中央区明石町聖路加病院前)

杉田玄白、中川淳庵らは腑分を見た翌日明和8年(1771)3月5日、中津藩中屋敷内にある前野良沢の家に集まり『ターヘル・アナトミア』の翻訳にとりかかった。翻訳の苦労は、玄白が晩年に書いた『蘭学事始』に述べられている。

幕末には福沢諭吉が、この中津藩邸内に「慶応義塾」を開いているので、現在この地に「蘭学の泉はここに」と題する解体新書翻訳の碑と慶応義塾発祥の碑が建てられている。




『解体約図』(複製)
全5枚 安永2年(1773)刊)

解剖図3枚、文章2枚から成る。
杉田玄白が文章を書き、中川淳庵が校開し、仕官していない民間人(処士)の熊谷儀克(元章)が図を書いている。
翌年に発行する『解体新書』の予告編であり、引札(ひきふだ、宣伝書類)であるという。
絵は『解体新書』に載っていない図を用いている。




『解体新書』(複製)
全5冊 安永3年(1774)刊

日本最初の翻訳解剖書。本文4冊、付図1冊から成る。前野良沢、杉田玄白、中川順庵、石川玄常、桂川甫周らが、ドイツ人クルムスの『解剖学表』のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』を足かけ3年かけて翻訳。図は秋田藩士小田野直哉が描いている。

付図は『ターヘル・アナトミア』だけでなく、他のオランダ語、ドイツ語、ラテン語の解剖書、外科書などからも写している。本文は単なる翻訳でなく、他の送書からの知見や自らの考えなどを「翼按ずるに・・・」(「玄白考えるに・・・」の意味)と書き込んでいる。また、この翻訳で玄白らは、「神経」「軟骨」「門脈」など新しい医学用語を造っている。




『ターヘル・アナトミアと解體新書』
酒井 恒 訳編  1986(昭和61)年刊

杉田玄白らは『ターヘル・アナトミア』の大きな字の部分、すなわち各項目の要点部分だけを訳した。辞書もなく、足かけ3年という短い期間に翻訳できたのは、それも一因である。その後、玄白と前野良沢の弟子である大槻玄沢が『解体新書』を補って『重訂解体新書』を発行したが、全訳とはいえない。

200年後名古屋大学医学部酒井恒教授(解剖学)は独学でオランダ語を修得し、『ターヘル・アナトミア』の文章を細部まで翻訳して、全訳の本書を完成させた。




『和蘭医事問答』(複製)
全2冊 建部清庵、杉田玄白著 寛政7年(1795)刊

奥州一関藩(いちのせきはん)(今の岩手県一関)の藩医建(たて)部(べ)清庵は西洋医学にも関心を持っていたが、学ぶ師がいない。弟子の大槻玄沢を江戸に出して『解体新書』発行で有名になった杉田玄白の門に入れた。

この頃(安永7年1778)から建部清庵と杉田玄白の書簡のやりとりが始まった。主に清庵の西洋医学に関する質問に、玄白が答える形になっている。

往復書簡の一部が大槻(おおつき)玄沢(げんたく)ら門人たちによって出版された。




『医範提綱』
全3冊 宇田川玄真(榛斎)著 文化2年(1805)刊

正式な題名は『和蘭内景 医範提綱』。
解剖学を主にして生理学、病理学も説いて西洋医学の精髄を紹介している。重要な部分は大きい文字で書き、それに対する説明を小さな文字を用いているのは『ターヘル・アナトミア』の記載を採り入れたと思われる。

本書では玄真が造語した「膵」や「腺」の字が見える。江戸時代の解剖書としては最も普及したものといわれている。




『和蘭内景医範提綱 内象銅版図』(複製)
宇田川玄真(榛斎)著、亜欧堂田善画 文化5年(1808)刊

『医範提綱』の本文3冊を出版して3年後に付図として出版。解剖図は須賀川(今の福島県須賀川市)の人、亜欧堂田善(本名は永田善吉)が画いている。日本で最初の銅版画として美術史の上でも有名。

採り入れているのは、ブランカルツ(1650−1702)パルヘイン、(1650−1730)、ヘルヘイン(1648−1710)(ウ)インスロウ(1669−1760)などが書いた西洋解剖書である。




?斎(いさい)「目録」
杉靖三郎ら編『杉田玄白全集 第一巻』
昭和19年(1944)刊

杉田玄白(号は九幸、?斎)が55歳の天明7年(1787)1月1日から73歳の文化2年(1805)3月25日まで記した日記。
玄白の住居は江戸中込矢来町(現、新宿区矢来町)の若狭、小浜藩上屋敷内にあったが、東は浅草、吉原、南は品川まで江戸の中を広く往診している。




『整骨新書』(複製)
全4冊 各務文献著 文化7年(1810)刊

大阪の整骨医(整形外科医)各務文献は『解体新書』発刊に影響され、全身の骨を観察。正確な骨格図を書き、本書を刊行した。その後、人体骨格を正確に木で作らせている。この木骨は「各務木骨」と呼ばれ今日残されている。




『冬の鷹』
吉村 昭 著  昭和49年(1974)刊

『解体新書』翻訳の中心でありながら『解体新書』に自分の名前を載せさせなかった(?)前野良沢を主人公にした小説。名前を載せさせなかった良沢の心情を良沢の生涯を書きながら推測している。
吉村昭氏は医学の歴史に関係した小説を多く書いている。
2006年7月に他界されました。ご冥福を祈ります。


医療法人社団 宏仁会小川病院
〒355-0317 埼玉県比企郡小川町大字原川205
TEL:0493-73-2750 FAX:0493-72-5192
個人情報保護について
Copyright(C) kohjinkai. All Rights Reserved.