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特集 −創立20周年記念−

寄稿
東大物療内科創設の憶い出
東京大学名誉教授・埼玉医科大学付属病院名誉院長
宏仁会小川病院 最高顧問  大島 良雄

20年所感
宏仁会小川病院 理事長 北川 宏

オレゴン川下りの思い出
宏仁会小川病院 常務理事 大谷 百子

陰膳
宏仁会小川病院 相談役 北川 忠義

稀有なる和の病院 ―「こうじん」20周年記念号によせて―
武蔵台病院長 山本 恵一郎

宏仁会小川病院開院20周年を祝して
宏仁会小川病院(初代友の会会長) 野崎 茂

宏仁会小川病院創立20周年
東松山宏仁クリニック 院長 吉川 康行

宏仁会と資料館
宏仁会小川病院 理事 蔵方 宏昌

透析治療とシャント術
宏仁クリニック 院長 冨田 哲也

事務長就任3年間の経過
宏仁会小川病院 事務長 徳竹 勇

透析技術認定士合格の頃
宏仁会小川病院 婦長 近重 百合子

患者さんとの旅(北海道)の思い出
宏仁会小川病院 透析技士長 田中 和彦

『励ましの言葉』
宏仁会小川病院 院長 吉田 哲

写真で見る20年のあゆみ(1)

鼎談その2
宏仁会小川病院の過去・現在・将来【その2】
宏仁会小川病院 理事長 北川 宏
宏仁会小川病院 常務理事 大谷 百子
宏仁会小川病院 事務長 徳竹 勇

写真で見る20年のあゆみ(2)

編集後記





特集 創立20周年記念 寄稿

東大物療内科創設の憶い出
◇東京大学名誉教授・埼玉医科大学付属病院名誉院長 宏仁会小川病院 最高顧問  大島 良雄

埼玉医大病院長当時小川診療所開院式の主賓挨拶をした。北川宏理事長のもと、早いもので平成13年で20年が過ぎた。宏仁会小川病院のいよいよなる発展を期待するものである。

創立20周年を記念して「こうじん」の記念特集号に私の東大時代の憶い出を述べてみる。

東大物療内科は初代教授の真鍋嘉一郎先生、第2代教授は三澤敬義先生で、私は第3代教授であった。今日は真鍋先生と三澤先生の医局時代の一端に触れてみる。

初代物療内科教授の真鍋嘉一郎先生は東大青山内科の御出身である。稲田龍吉博士が後継者として青山内科の後を継がれたので、真鍋先生は新設された物療内科の主任となられたのである。先生には政治家や実業家を始め多くの真鍋先生信奉者がいた。良く知られている夏目漱石との親交もあった。先生が伊予松山の御出身であること、お二人とも学位 をとられなかった点で、夏目漱石との共通点があったのである。

私は、東大昭和9年の卒業で物療内科に入局した。先生は臨床には非常に熱心な方で、昼食も遅くなることがしばしばであった。弟子達は医局で先生が昼食の席に着かれるまでは、どんなに遅くなろうが我慢して待っているのが常であった。昼食の代金は15銭位 だった様に覚えている。

二代目教授の三澤先生は法医学の三田先生の所で免疫学の研究を修められた。三澤先生が群馬県草津で酸性泉の研究をされる際にはお手伝いをした。当時旅費や滞在費は自分もちであった。旅館代は確か1日3食で1円50銭だったように思う。その時代副手は学位 を受けても無給で研究をやっていたものである。研究出張費用の自分持ちは当然のこととして何とも思っていなかった。

大学医局での仕事は、診療と研究であった。診療の終ったあとの時間を研究にあてていた。内科の講義を聴くのは旧制度の医学部2年3学期くらいから始まった。医学部ではポリクリという臨床実習(外来診療)があった。ポリクリは4人1組で最初の1時間で予診を行い、次の1時間で教授等によって外来診断の指導を受ける。時間内に診断をつけるのは容易なことではなかった。ポリクリには面 喰ったがあれは続けたほうが良い。ポリクリで外来診療を覚えて行くものである。

初代真鍋嘉一郎先生は昭和13年11月に退官された。その後を受けて三澤先生が昭和13年に2代の教授となられた。  真鍋先生は退官後3年にしてS字状部結腸癌で東大大槻外科に於いて開腹手術を受けられた。この時の腫瘍は既に転移し人工肛門を造って物療内科に転科された。物療内科では、直弟子や関連各科の先生から最善の治療を受けられた。

多くの方々に惜しまれて昭和16年12月29日に先生が創設された東大物療内科にて逝去された。先生は奥様と一緒に東京青山の梅窓院へ納骨されている。

私は毎年のように先生のお墓にお参りして当時の先生を偲ぶことにしている。



20年所感

◇医療法人社団 宏仁会小川病院 理事長 北川 宏

創業して20年光陰は矢の如しと云う。

過ぎ去った歳月は既に存在しないから当然一瞬の出来事である。

業半ばの未完成の見方からすれば、長い道程の一里塚でしかない。人間の一生の齢に換算すると幾つ位 になるだろうか、単純に20歳とは云えないだろう。人間20歳と云えば現実の人間社会に足を踏み入れたばかりの齢である。

病院も躍進の気溢れて、前進していれば20歳の青春と云えるだろう。だが無気力の中にさ迷う状況であれば、青年にして既に老境と云わざるを得ない。あたら春秋に富む青春も空しく、老境の烙印を押されることは、現実の世によく見られる人間の姿である。

大小を問わず一つの病院がそれなりの社会的使命を果たして次の段階へ向けて躍動していれば、まさにそれは人間の青春に例えられるだろう。我々の病院は、創業20年の若者たり得ているだろうか。サムエル・ウルマンの青春の詩になぞらえれば、輝いている病院とは創業以来過ぎた歳月の長さを云うのではない。明るい各部署の表情、奉仕する医療職者としての誇りある動き、いつも前進への意欲が溢れているような病院その様な病院であれば、これを人々は良い病院と云うだろう。

幸いにも自己のかかわっている病院が鮮やかにその様な病院に近いとイメージすることが出来るならば、その人は一生の選択を誤ってはいないだろう。反対にその様にイメージする事が出来ない時我々には二つの道の選択しかない。

一つは失望し進む勇気を捨て去る。他の一つは有為転変の世にあっても未来を信じて目的へ向かって進む改善への道程である。前進する為には改めねばならない事もある。改める事への道程には一時的な風雨が強まるものである。

如何なる運営にも逆境は必ずあり得る。その時悲歎の渕に立ってはならない。風雨は又大地に穀物を実らせる恵に変えることも出来る。

禍を転ずる知恵と目的へ向かう持続力が今まさに必要とされている。今20年を境として前進の為の果 実をひろおうとしている。古いものの中に前進への糧となる果実を求める温故知新への道である。



オレゴン川下りの思い出

◇医療法人社団 宏仁会小川病院 常務理事 大谷 百子

診療所開設の折には医局の先生方を初め、多くの方々に大変な御協力をして戴きました。

20周年を迎えて、理事長は一瞬の出来事であったとよく申して居りますが、私にはそうとばかりとは思えない年月でございました。

規模は小さくても企画や手続きを進めるには大きな病院と変わらない折衝事もあり、之を裏方として勤めて参りました。

仕事関連でのアメリカ視察旅行が特に印象に残りましたので、その想い出を書いてみたいと思います。

平成6年夏アメリカに行く機会があり、大学病院や盲学校の見学の間にラフティングと云う川下りを体験しました。日本を出発前女性通訳の北村さんからラフティングと云うスポーツ案内がありました。危険を伴う川下りで積極的に勧めにくいとの話、特に女性で60歳を超えた人では日本からの申し込みはないと云う事でしたが、私は生来、船に乗るのを怖いと思ったこともないので、申し込みをしてオレゴンへ旅立ちました。

当日宿舎のコンドミニアムを午前6時出発、9時頃到着しました。景観の中を延々と続く立派な広い道路には空鑵一つも見当たりません。信号も、料金所もない道路を遠くに雄大な山々を見ながらのドライブは一つの野外スポーツと云えましょう。

或るときは草木も見当たらない荒野を進む。云うまでもなくここはアメリカ西部劇の舞台そのもので別 天地の風景です。

雄大な山の頂上付近から中腹にかけては雪が見える。出発後3時間程するとデシュート川の道路標識が目につく様になりました。

このデシュート川はアメリカオレゴンの3000米級の山々を含む、カスケード山脈の山麓に沿ってコロンビア河と繋がっている長大な川です。

目的地に到着いざ乗船となると、川下りの中の事故は個人の責任で負うと云う署名が求められた。要は自己責任による契約で万一死傷のアクシデントもありますよと云う事で、成る程聞いていた通 りの契約社会そのものだと思いました。

私達の乗ったゴムボードは、7,8人用でインストラクターから川に落ちたときの救助法、ボートの漕ぎ方、号令の仕方等を、英語で説明を受け、日本語にも転換する、然し実際の急場の時になると英語が飛び出す、しっかりした感じの好青年でした。

川は水量豊富で流れのゆるやかな所と急流となる岩場があったり、油断ならないコースでした。急流になり岩が目前にせまると、インストラクターは真剣に漕いでいる私達に向って、急を知らせる日本語とのチャンポン英語で号令します。

ここにアメリカから送られてきたその時の2枚の写真があります。一枚はインストラクターを含めて7名、男性は病院から榎本先生、北川兄弟、女性は北村さんとアメリカ人メアリーさん(日本の大学での英語教師)と私の3名でした。

白波の激流を漕ぎながら下るボートの中には7人乗組員の顔があります。他の一枚には6名の顔と、ボートからずり落ちて波の上に横倒しとなった写 真です。それが何と私なのです。激流の難所の上にはカメラが設置され、自然にシャッターが切られていました。

インストラクターは右腕で横倒れの私を起こそうとしている。私はこれを初めて見た時、状況がこの様になっていた事が信じられない程夢中でした。顔が白波の中に隠れて見えない状態です。一瞬の出来事を写 したものです。メアリーさんがアメリカから送ってくれる時、その写真に、bigtime!の添え書きがしてありました。皆それぞれの表情を寸時にとらえた貴重な思い出の一枚の写 真となりました。男性2人の右腕が私の足を掴まえて波に流されるのを防いだが、危うく呑み込まれそうでした。然し激流はここだけでなく昼の小休が済んで午後のラフティングで又厳しい難所が待っていました。

突然インストラクターの号令が急を告げる激流の中に突っ込んで、相当な段差の暗礁 に乗り上げてしまったのです。午後から乗っていた日本語の少し解るポートランドの医学生が、激しい水しぶきの岩上に飛び下りて渾身の力でボートを押す、私達は必死に漕ぐ、ボートは暗礁 から離れない。危ない!木の枝が頭上にあって動きもとれない。突然櫂が2本も手元を離れて飛んだのが解らない位 に翻弄された瞬時でした。

ラフティング案内では野外スポーツとして子供も出来るとありましたが、危険と隣合わせの船下りと思いました。それでも緩い流れのところでは、お互いのボートどおしで水をかけ合っての友好的な応酬を交わす時間も有り、水中カメラを投げて、贈り物としてくれた人もいたり、お互いの名前を名乗ることがなかったが、忘れることの出来ないアメリカでのラフティングの憶い出となりました。



陰膳(かげぜん)

◇医療法人社団 宏仁会小川病院 相談役 北川 忠義

「陰膳」とは、「戦争や長途の旅などに出た人の安全を祈って、留守宅で供える食膳」とある。要は無事を祈っての一種の「まじない」に近いものだったのだろう。

先の大戦で兄三人が出征した。母は毎朝仏壇の前に三人分の陰膳を供え、なにやら唱えていた。恐らく「無事生きて帰るように」とでも唱えていたのだろう。

そして敗戦、一人帰ると陰膳も一つ減り、次に又一つ減る。暫く間をおいて残りの一つも昭和23年を最後に姿を消した。

一人は過酷な南方激戦地、次は戦闘機搭乗からの生還。最後はシベリア凍土から、三人とも無事だったのである。当時子供心に陰膳が効いたのかなあ、と思ったものだ。時は移り、すぐ上の兄が昭和56年小川町に診療所を開いた。家族も又幾多の変遷を生きてきたが、我々に又一つの陰膳が必要となった。 それは、実物の陰膳ではなく、診療所の安否を気づかう「心の陰膳」である。子供の頃から兄の性格で「頑張りぬく」とは思っていても、やはり気になるのが、家族の絆である。暫くすると又陰膳が増えた、宏仁クリニックである。

この時は立地条件などを相談され、私も勧めた経緯もあり、心づもりはできていた。

大戦中の陰膳は一つずつ減っていったが、又一つ増えて三つ目の陰膳となった。東松山の宏仁クリニック開院である。

そのうちに病院も二十周年の話を聞くようになった。これまで病院も多くの方々に支えられ、ここまで続いてきた。

先生や職員、多くの関係者への感謝の念を新たにし、今後とも地域医療への貢献と、三施設の無事安泰を祈り「心の陰膳」を供え続けたいと思う。



稀有なる和の病院  ―「こうじん」20周年記念号によせて―
武蔵台病院 院長 山本 恵一郎

埼玉医大腎グループより独立し、小川の現地にはじめて透析の病院を創設された北川先生の苦労は、物心両面 、当時は大変なものであった。20年前の最初の開所式の光景は今も小生の脳裏に残っている。ささやかな式であったが当時の町長代理も列席され、祝詞を述べられていたように思う。爾来北川院長は更に高坂と、次いで東松山に透析クリニックを増設、短期間のうちに宏仁会病院群ができ上がった。今日では埼大透析グループに負けず劣らず仕事され、共同の学会もつくられて互いに切磋啄磨、勉強されている。

私はつとに先生の病院経営者としての人柄と力量にとくに敬服している。医師、看護婦、事務系の人々を統合し、一体となって診療を充実し、すべてに決してギスギスせず、よい雰囲気の病院となっており、加うるに忘年会や旅行会や運動会なども盛んで、従業員のレクリエーションには特に力を入れられている。これらの懇親会には近隣の人々、知人の方々も大勢が招待され、私も殆んど毎度のように参加している。

昨年初めから小川日赤より吉田哲先生が赴任され、睡眠時無呼吸症候群をはじめとした睡眠障害医療センターも開設され、宏仁会小川病院に新しい顔も加えられた。

創成が難きか、守成が難きかの言があるが、その双方の難を克服された、この20年の歩みの進展に衷心よりお祝い申し上げるとともに、21世紀の益々のご健闘を期待したい。



宏仁会小川病院開院20周年を祝して

◇宏仁会小川病院(初代友の会会長)野崎 茂

私は、昭和54年5月8日埼玉医大附属病院で透析導入となりました。1年数ケ月経過した頃、北川先生(現理事長)が回診の折、「小川寄居方面 にも透析患者が大分増えてきたので、小川に透析のできる病院を造りますよ」と云って下さった。この話を小川方面 の仲間に話すと皆なとても喜んでおりました。そして、56年12月待望の小川診療所が開院となり、同時に我々小川、東松山、寄居方面 の患者は転院させて頂きました。

その後、導入から23年目を迎えることが出来たのは、諸先生並びにスタッフの方々の心のこもった看護とあいまって透析機器の発達と病院施設の拡充・改善がなされたお蔭と心より感謝しております。

導入当時を振り返ってみれば、常食に比べあまりに急激な食事制限の指導を受け、食欲も減退し会社に出勤することもおぼつかない時もありましたが、自分なりに食事の研究をし、家族の協力もあって体力も付き、59年9月、無事会社を停年退職することが出来ました。

その後は、大好きだった鮎の友釣りもし、スタッフの方々が海釣りに行くといえば同行させていただいたり、60才以後は近隣の人達からゲートボールを勧められ入会しました。この競技は、元経験したことのあるゴルフや撞球が役立ち、町の大会、県の大会と勝ち進み、最後に新潟県と対抗して優勝し、沢山の地酒を賞品に頂いて帰ったものです。嬉しいことは、重なるもので、家に帰着すると同時に電話が鳴ったので出てみると、トライアル競技のためヨーロッパに遠征している孫からの電話で、5ケ国で行われた大会で全て優勝し世界チャンピオンになったとの知らせで、留守家族で賞品のお酒で乾杯し大いに喜びあったことを思い出します。友の会の皆様も軽い運動や楽しみを沢山作り病気を忘れて毎日を楽しく頑張りましょう。
最後になりましたが、宏仁会小川病院の今後益々の発展と友の会の皆様の健康で楽しい透析生活をエンジョイすることを願い、開院20周年のお祝いの言葉と致します。


宏仁会小川病院創立20周年

◇東松山宏仁クリニック 院長 吉川 康行

宏仁会20周年おめでとうございます。
小川病院の敷地は栗林で、下見に来た時、北川先生と栗拾いをしたのを今でも憶えています。時の経つのは早いもので、あれから20年が過ぎびっくりしています。

この間、宏仁会は順調に発展し、3施設になりました。

3番目に設立された東松山宏仁クリニックは、開設以来7年、4回べットを増設し、今回は外来施設を新築して、面 目を一新しました。これも、偏に、北川先生をはじめ職員一同の地道な努力の賜物であり、感謝申し上げます。天の時、地の利、人の和を得て、これからもさらに発展して行くことを期待しています。

21世紀を迎え世の中便利になりましたが、暮らしにくくなっています。今まで日本は、世界で最も健康な国であったわけですが、更なる高齢化社会を迎え、これを維持発展させるため、我々も医療の質、生活の質を上げなければなりません。

今後ともよろしく、ご指導ご鞭撻をお願い申し上げます。



宏仁会と資料館

◇宏仁会小川病院 理事 蔵方 宏昌

私が開業して数年たった頃、北川宏理事長から「病院を建てたいので、連帯保証人になって欲しい」と頼まれた。北川理事長とは、学生時代に、閉店する医学販売店にリヤカーを引いて医学書と医学雑誌を買いに行ったり、丸干をかじりながら酒を酌み交したりした久しいつきあいである。二つ返事で連帯保証人を引き受けた。

小川病院が医療法人になるとき理事を引き受け、パート勤務もするようになり、宏仁会の人々とも知己を得て、森林公園に資料館倉庫を作る機縁となった。

10年前からコレクターの蒐集品や日曜画家の作品などを展示できる資料館の建設を考え、土地を探していたところ、中島隆之さんから「良い物件がある」と紹介されたのが森林公園の建物である。資料室兼展示室にしようと屋内を改装した。しかし順天堂大学で大量 の廃棄本が出て、その一部をもらって移したため、急に蔵書が増え、展示スペースがなくなった。森林公園の建物は倉庫兼研究所(?)にし、展示は別 の場所を考えている。

収蔵品は医療関係以外に、日常生活の品々も集めているので、多くの人から様々な物を寄贈された。宏仁会からも大谷百子常務理事から戦前のビール箱の蓋などを、山崎良法さんからウイスキーなどの壜を、清水宏さんから埼玉 県の歴史の本をいただいた。

寄贈品を展示する場所を早く作りたいが、目下“金難”という厄介なものに直面している。



透析治療とシャント術

◇宏仁クリニック 院長 冨田 哲也

小生の内シャント術の開始は、昭和60年4月25日である。埼玉医大の透析室は、昔の毛呂病院の手術室で無影灯が備わっていた。透析患者さんがすさまじい勢いで増加し、透析導入した患者さんが内シャントを造れない為退院出来ずに困っていた。当時、内シャントの造設は第一外科が担当し、透析室の婦長が取り仕切っていた。転機が訪れたのは4月。その婦長が川越の医療センターに総婦長として赴任した。凡そ、8年間、手術室に通 い、外科医の内シャント術のテクニックを学んだ。その間、外シャントを造設した症例は200列を超え、内シャント造設は53例の手術を行った。それから毎年100例以上のシャントを造るようになり、手術依頼があると、学外の病院にも出かけた。宏仁会小川病院もその一つであった。昭和61年7月3日が始めでDLC(ダブルルーメンカテーテル)挿入と内シャント造設を行った。平成4年11月より、宏仁クリニックの院長として勤務したが、シャントが出来ずに困った症例で他の病院から救急車で内シャントを造りにきたことも何人かあった。近隣の病院や透析クリニックからも依頼があり外来診察が終わった後に手術を行った。新しい手術室が平成8年2月、外来診察室の奥に造設され、手術はそこで行うことになった。他施設から依頼された患者さんも時間を決めて予定して行っている。手術が難しいと思われる症例は時間を懸けて行わざるを得ないので、日曜日や祭日を利用している。

透析治療が十分行えないと患者さんは全身状態が悪くなり、QOLが低下する。内シャントが良好で無いと、透析不十分となり患者さんの寿命は短くなる。最近は糖尿病から腎不全になり、透析に陥る症例が多数を占めており、血管が不良の場合が少なくない。出来るだけ侵襲を加えないような手術が出来ると良いが必ずしもそのようにはいかないケースもある。透析治療が必要とされた症例には手術はもちろんのこと、穿刺操作などにおいても血管を大事にしてほしいものである。



事務長就任3年間の経過

◇事務長 徳竹 勇

小川町の地をめざし、東松山のインターで降り車をとばし、志賀の信号を左に折れ切り通 しの峠道の坂をのぼり、両側の鬱蒼とした森を抜けると 突然、まさに手の平にのるような街がフロントガラスから飛び込んできた。あとで知ったのですが「小京都小川の街並み」であった。

平成10年4月に医療法人社団宏仁会小川病院の事務長として入職し、3年7ケ月が過ぎました。入職した秋、友の会の新聞に堅実な守備のなかでいかにして「医療の質」を高めるか、また、今までの経営のなかで将来像をどのように描いて行くか、専門病院としての特色、それに伴う医療体制、そこから生まれる職員の満足感、結果 的には全てが患者さまの満足に繋がるものだと思う。そのために頑張れたらとの気持ちを文に託しました。あれから、本当にあっという間の月日です。

長い歴史を順調に歩んで来られた病院も、社会構造の変化と共に医療環境もめまぐるしく変化するであろうことを数年前より理事長北川宏先生が予測され、病院の改善策に真摯に取り組んでこられたことは、皆さんもご存知の通りです。

平成11年10月に透析患者さま専用の床面積約330平方メートルの増築が完成した。これは病院機能の改善と環境整備を目的としたものであった。

平成11年7月には、宏仁会小川病院の透析専用建物の増築工事と並行して、宏仁クリニックの改修工事計画が始まり、1階診察室及び外来受付事務室の移設工事、2階の給排水衛生工事と空調設備工事、そして3階では既設カウンターの改修工事を行い12月には全体の改修工事の完成を見た。平成12年1月に吉田哲先生が小川赤十字病院より、宏仁会小川病院の院長として入職され、診療科目に呼吸器科を設け各種呼吸に関する診療の充実を図り病院の大きな柱になりつつあります。平成12年3月には宏仁会全体の将来を見据えた改善策を実行に移すべく、3施設合同職員総会を開催し、趣旨が説明され組織、人事、環境、運営の面 で病院機能の一新がスタートした。まさに記念すべき3月7日であった。

平成12年12月に車両の第2車庫が完成し、平成13年8月には念願の駐車場の拡充が完成した。これは原川敏雄さまのご好意とご協力があっての完成であった。

平成13年7月に第1回3施設合同研修会を開催し、各施設の患者さまとの交流と勉強を兼ねた有意義な研修会であった。長く記憶に残るものである。

平成13年8月には東松山宏仁クリニックの全面的改修工事を行い、10月にはその完成をみた。これは宏仁会の大いなる期待をこめた事業であった。そして、現在は宏仁会小川病院の厨房改修工事と職員食堂の増築工事、休憩室と倉庫を兼ねた2階建ての新築工事に取りかかっている。このような病院の歴史に残る改善策、環境整備そして情報化に対応したコンピュータ導入、情報誌こうじんの発行等に携わることができることの喜びと同時に責任を重く感じています。そして、継続的安定経営に寄与できるよう時代の流れを読みながら今を精一杯頑張っていきたいと思います。



透析技術認定士合格の頃

◇宏仁会小川病院 婦長 近重 百合子

今回「透析技術認定土合格の頃」という題目を頂き、先ず頭の中でよぎったのは、辛い思い出と、嬉しい思い出の2つでした。 私は、昭和61年度に施行された第7回の認定試験には見事に落ちてしまいました。今だから、こうして明るく云えるけど、その時はとても憂鬱でした。正直に白状しま
すが、私は働くのは大好きですが、勉強は嫌いなのです。

また1年との気持ちで、いやいや勉強しながら過ごさなければならないかと、崖っぷちに立った思いでした。しばらくは放置して、気分を静めていましたが、また1から始めました。日にちはどんどん過ぎ行き、何程も理解していないあせりのうちに、 第8回の試験日を迎えました。午前中70問、午後70問あり、その中に計算問題が20問位 あったと記憶しています。前回のときは、若しかしたら、という安易な気持がありましたが、今回は全々自信がありませんでした。それからどのくらい経ったでしょうか、あの合格通 知を貰った時は、天にも昇る嬉しさでした。人の2倍の喜びでした。

何の試験でもそうだと思いますが、勉強をしている時は孤独な戦いであり、ともするとその意義さえ疑いたくなってくるものです。しかし、試験が終わり、合格通知が届くとその充実感は、仕事への意欲に変わってきます。一人でも多くの人が、喜びを味わい、毎日の仕事に自信と誇りを持って働けたらと願っております。



患者さんとの旅(北海道)の思い出

◇宏仁会小川病院 透析技士長 田中 和彦

昭和63年1月頃だったと記憶しています。ある患者さんと旅行の話になり、昭和54年頃私がまだ医大に在職中、私の故郷長崎、五島へと案内同行したことがありました。今から23年前ですから、当時は患者さんの旅行といってもまだ1泊がせいぜいで、他施設での旅行透析などまれでした。まあ、どうのこうのの話が盛り上がるなかで、小川病院友の会有志で、今度は反対側の北海道でもと話がまとまり、また、理事長のご理解とスタッフの協力のもとに、昭和63年6月4日出発の運びとなりました。

メンバーは、写真にもありますように10名と、途中理事長、常務も合流し楽しい旅が始まりました。ルートは道南が中心で、何しろ、殆どが北海道、飛行機、旅行透析と初めてだらけ、一人の患者さんの一番の感動は、雲海だったそうでもう大はしゃぎでした。

朝市、登別温泉、熊牧場、アイヌ村、色々な湖、トラピスチヌ修道院。また、偶然遭遇した「キタキツネ」など一つ一つが感動の連続でした。 また、旅行透析は札幌で行い、患者さん不安のなか理事長と私が同行できたことで多少の安堵感がもてたことと思います。北海道は食材の宝庫で、全員心?身?共にパンパンに膨れあがり、楽しい旅も終わりになりました。

追伸 旅行の友の中に何名かご他界された方がいらっしやいます。この書面をお借り致しましてご冥福をお祈りすると共に、これからも30年〜40年透析を目標にされている方に1年でも長生きできますようスタッフー同の努力と、協力をお願い致します。



『励ましの言葉』

◇宏仁会小川病院 院長 吉田 哲

さり気なく語られた言葉(述べたご本人はすっかり忘れていると思われる)が、相手に強い印象を与え、その後の人生に大きな自信と勇気を与える。そのような言葉を人は一つや二つは持っているのではないだろうか。

約16年前、私は、長く勤めていた大学の仕事場から、一般病院へと大きく勤務先を替えた。その当時、自分にとっては大層恐れ多い立場の方であったある先生にご挨拶に参上した。その時、私は思いもかけない言葉を頂いたのである。「一般 病院へ移りますか。君のような先生に診てもらえる患者さん達は幸せだな…」多くを語らない大先輩の先生から若輩の医者がこのように云われたとしたら、誰でも嬉しくなるだろう。実に心良く響く言葉であった。

今考えると、先生は、あの当時の私に対し、逆説的な意味をこめてこのような言葉を述べられたのではないかと思う。また、おそらく、このような言葉を私だけでなく多くの弟子達に励ましの言葉として贈っておられたのではなかろうか。

その「励ましの言葉」を私に下さり、私の人生でまさに最高の教育者のお一人である先生は、今や90才である。そのお方とは、来年日本で二度目になりますが、京都で開催される第26回国際内科学会の最高顧問のお一人であり、私達の病院創立以来の最高顧問である大島良雄先生である。

今、先生は、図らずも、私達の病院に入院されている。医師団の一人として先生の診療に参加できることを大変名誉なことと思っている。



宏仁会小川病院の過去・現在・将来【その2】

3)東松山宏仁クリニック開設まで

小川診療所の開設から、その後の宏仁会小川病院への規模拡大、さらに宏仁クリニック(高坂)の増設に至るまでの経過をお聞きしました(ここまでは、「こうじん4号」にすでに掲載済み)。理事長は、引き続いて東松山宏仁クリニックの新設を企図されております。やはり、東松山での透析施設の開設は患者さんの急激な増加に対応するために行われたものでしょうか。理事長、当時の透析医療の状況をお話し下さい。

再び、1996年(平成8年)10月開院15周年の年譜をもとに経過を追って見ましょう。


東松山開設に至る迄の経緯に就いては、高坂の宏仁クリニック開設後の状況と密接な関わりがある。平成3年に開院した宏仁クリニックは、冨田院長を初め全職員の努力により、先ずクリニックの基礎が出来、その後月日の経過と共に順調に発展した。

先に述べたように、小川における患者総数に占める東松山からの通院患者数は25%に達していた。宏仁クリニックは、通 院時間の問題、冬場の厳しさを解消する要望に対応して新設されたもので、その後宏仁クリニックの患者数は、その対応に因難な程に、増加の一途をたどった。

宏仁クリニックの18床の通院透析ベッド数では受け入れ態勢上から間もな<無理が生じてきた。この時期は全国的にも透析患者数が増加する時期に一致する。この手狭になった宏仁クリニックを、敷地面 積確保等の土地対策や建設規制法上の観点からその解決策を模索した。しかし、検討に検討を重ねてはみたが、増改築を実現する迄には至らなかった。この高坂の敷地増改築案の検討中、大分以前から交渉のあった話が再び浮上し、俄かに東松山に新しいクリニックを建設することが現実の問題となってきた。それには一般 経済社会の大きな変化や人とのつながりが続いて居たことも大きな促進要因となって、遂に契約するまでに至ったものと思う。

東松山市内にあるビル内の荒れ模様は相当なもので、今でもよく表現できないほど荒れに荒れていた。これを軌道に乗せる迄には相当な困難を伴うものと予想された。事実、建物の改造は大がかりなもので、工事は各方面 との折衝を経た後に、予定通り、増床を実現することが出来た。資金面では既に厳しい状況下にはあったが、なんとか解決を見ることになった。開院以来の信頼関係にあった取引銀行から融資の応援が得られたからである。こうして難航はしたが、ようやくクリニック開設迄に漕ぎつけることが出来たのである。

1995年(平成7年)5月1日、東松山宏仁クリニックが開設され、吉川康行院長就任、職員4名をもって宏仁クリニックから転院後の患者の診療が開始された。その後、大病を克服した吉川院長は元気に診療運営にあたっており、東松山宏仁クリニックは順調に進展している。以後、宏仁クリニックと東松山宏仁クリニック共通 の開院記念日を5月1日とした。

以上が、東松山宏仁クリニックが開設されるまでの経過です。この頃から、私は、三施設運営の責任を担う立場で、将来的な問題として三施設の合理的な運営の必要性を痛感するようになりました。

ありがとうございました。次に、東松山宏仁クリニック開設までの12年間、理事長は事業家として大変なご苦労をされたものと推察できますが、この過程で、常に、傍らで理事長の良き相談相手をされておられる常務理事にも大変ご苦労が多かったものと思います。今日までの発展の過程で、持に留意されたこと、あるいは印象深い出来事など、少しおきかせください。

次々とめまぐるしく、設計・工事・開院が繰り返され、いつもトンテンカン・トンテンカンと音の絶えることがありませんでした。私には、建設関係者の接待に明け暮れする毎日の連続でした。いつも心にしていたことは、建設にかかわる方々との和を一番大切にしたことです。その甲斐あってか、その当時の方々とは今も非常に親密なお付き合いを続けさせて頂いております。

ありがとうございました。再び、理事長にお願い致します。東松山宏仁クリニック開設以後で今日に至るまでの主だったイベントをお話ください。

東松山宏仁クリニック開設以後で、主だった事としては次のようなことがあります。


1996年(平成8年)2月2日、小川本院内にシャント手術室を増設。

この手術室で、宏仁クリニック冨田院長のシャント手術が開始されたこと。今も、三施設内に発生するシャントトラブルや透析導入患者のシャント手術は勿論のこと、他施設からの手術依頼も一手に引き受け、シャント造りに励んでいます。この手術室はいまや冨田院長の独壇場でもあります。


1998年(平成10年)4月16日、徳竹事務長就任。

宏仁会小川病院事務長職は長期間空白の状態でしたが、徳竹勇事務長就任によってその空白が解消されました。徳竹事務長は直ちに事務長業務に着手し、人事・財務・事務全般 の統括の任に当たることになりました。


1998年(平成10年)秋には、小川の既存建物に増築計画が具体化した。

病院経営には、時代の変化や要求に即応する姿勢が求められます。患者さんの急速な高齢化に対する配慮もあって、病院機能の改善・整備が必須と判断され、これを受けて既存建物に増築計画が具体化して行きました。


増築建物には、人工透析患者専用の玄関、昇降機の設置、多目的休憩室等の新設を企画、併せて将来の対応も含めた増築案が計画された。増築面 積は1階2階合わせて330平方メートル(100坪)が予定された。既存部分を含め建物の敷地面 積は約2020平方メートル(612坪)となる。慎重なる設計に基づき必要書類が作成され、関係役所へ提出された。平成11年6月8日には建築確認済証が交付され、平成11年6月16日地鎮祭が挙行された。建物の完成は平成11年11月4日であった。

1999年(平成11年)12月25日、吉田哲新院長歓迎会と忘年会パーティ開催。小川日赤副院長松本泰先生や、田中医院田中蘭子先生の新しい顔ぶれも見られた。理事長歓迎紹介挨拶、新院長就任挨拶が為され、恒例の忘年会に移った。2000年(平成12年)1月1日より呼吸器の診療科目の届け出や、睡眠障害医療センターの設立をみた。やがて終夜睡眠ポリソムノグラフィー(PSG)検査が導入され、検査・診療さらに研究活動が始まった。

2000年(平成12年)3月7日、三施設合同職員総会を開催。創立18年を経過し、病院機能の−新が必要な病院の現状認識と運営理念・組織改善案の趣意を述べた。組織改善を具体化するには、三施設間の連携を強化することが必要で、運営面 での合理化は当面の大きな課題であった。それらの対象となるものは、三施設間の勤務交代連携、配置転換の実施、窓口事務業務、薬剤・栄養の分野、運転等の施設管理の見直し改善案であった。環境整備としては、小川本院外来駐車場の計画、厨房、休憩室改善案が予定されていた。東松山宏仁クリニックについては、施設改造案が数年来の懸案事項となっていた。以後、これらの対象項目は、病院方針に基づいて逐次実行に移されている。

同年4月1日運転管理部発足(同年12月24日新築された病院車庫と併設された運転管理室へ移転)。

同年4月、MRSA等院内感染対策委員会開催。

同年6月、病院薬事委員会を開催。

2001年(平成13年)7月15日、第一回三施設友の会合同研修会が国立女性教育会館に於いて開かれた。

同年8月1日、東松山宏仁クリニック改修工事着工。数年来の懸案事項であった改造工事は病院改善策の一環としてようやく始動することになった。透析患者の緊急外来診療の為の診察室、薬局窓口整備、透析ベッド確保、トイレ改造および外装工事が主なる工事内容であった。完成引渡しは平成13年10月19日であった。

同年8月、宏仁会小川病院駐車場完成。開院当時からの駐車場は、患者さんおよび職員の増加に伴い手狭になってきていた。この駐車場の整備については、数年前から懸案となって交渉が進められていた。地番変更等の長期に渉る事務手続き、地主の協力・農業委員会他、関連関係役所との交渉が結実し完成となった。現在、病院関連の駐車台数は総計80台である。

このように、施設建物等の運営の為の基本設備、いわゆるインフラ整備は、診療所から病院へ、高坂を経て東松山へと続き、平成13年11月の現在の今も、本院の増設工事が続けられております。創立20年の環境整備工事は、本年12月中に完了する予定です。この様な−連の増改築工事は、病院の歴史そのものであります。

ありがとうございました。


将来展望:
次にこの病院の将来展望について、ご意見をお聞きしたいと思います。先ず、理事長からお願いします。

当面の将来展望としては、これからも既定改善策の方針に基づいて、病院の機能化を計りたい。これによって溌刺たる職場を築き、それを足掛かりとして社会的使命を果 たそう。それには今まで以上に三施設連携をより密なものとし、診療内容の充実を計ることが重要課題である。以上です。

続いて、事務長にお願いします。

二つあります。その一つは、三施設の連携です。地域に貢献できる専門病院としての位 置付けをしながらサービスの向上に努めることがまず考えられます。今後ますます高齢化が進む中で、三施設の職員の役割が更に重要になってくるものと思います。

患者さん個々の健康管理意欲の向上と介護保険制度の導入は否応なく患者自身が提供される医療サービスの質に対する関心を高め、尚且つ、自己決定権を高める結果 となっています。一方病院側としては、患者さんの多様なニーズに答えていかなければならない困難さがあります。その答えの一つが、三施設の連携であり、医療従事者の質の向上であり、環境整備であります。そのため、只今理事長が述べられたように、小川、高坂、そして東松山と三施設の環境整備を行い、現在も整備のための工事を続行しております。また、高度情報化の時代にあってはコンピュータの導入を活用し、積極的な情報の「提供」さらには「発信」へと将来広げていく必要がありますね。そのため三施設連動したコンピュータの導入を実施し、患者情報の三施設共有化を行い、合理化を目指しコンピュータと向き合って成果 を上げるべく各職員が取り掛かかっております。
二つ目は、診療内容の充実。入院医療を中心とする病院とプライマリーケアを担う「かかりつけ医」を中心とした地域に医療サービスを提供していくという2つの姿が基本になって行<ものと考えられ、診療科構成に基づく専門性、また、地域の医療需給の実態を勘案した上で、病院の基本的な体制、性格付けを定めていく必要があると思います。幸いにも伝統と専門性においては他の病院の追従を許さないとの自負をもっています。

ありがとうございました。

最後に、宏仁会小川病院開設20周年を迎えるにあたってのご感想を一言ずつお願いします。


理事長:第一段階の締めくくりとしたい。

常務理事:次に向けてのジャンプ、飛躍としたい。

事務長:総てに感謝と次なるスタート。


まとめにかえて:
職員一人ひとりが、地域の患者さんのニーズに答え、専門性に富んだ診療内容を提供する病院づくりに熱心であれば、宏仁会小川病院は今後も発展し続けるということでしょうか。10年、20年後、職員にとってこの病院が、誇りある自分の仕事場として思い起こすことが出来る病院であることを願います。

本日は、大変お忙しいところ、長い時間にわたりお話しして頂きました。これをもちまして、宏仁会小川病院の過去・現在・将来についての鼎談を終わらせて頂きます。大変ありがとうございました。


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